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雪駄の目利きのポイントと表の歴史などについて簡単にまとめてみた。

◇畳表(竹皮表)
目が詰んでいる事。編みが細かければ細かいほど良い。
つま先部分を見れば一目瞭然。滑らかにアールが出ているのがわかる。
↓写真:地長表


色。飴色が最上級。↓写真:地長表


表面の艶。左:地長表 真ん中:地長表 右:支那表

ライトに当てたとき、表に光が反射するのが良い。
真ん中と右を比べると、真ん中の表はビシっーーと一直線に光を反射して艶が凄いのが分かる。
右のは艶が無い。
この「凄い艶」は地長表と呼ばれる表の重要な要素。

真ん中の雪駄は地長表の幅狭(巾狭、ハバゼマ)です。

地長表の幅狭はとても希少。

◇幅狭(ハバゼマ)
どんな縦の長さに対しても、基本的に横幅を三分狭める。
縦の長さが八寸だと、横幅は通常の規格で三寸三分。
その横幅を三分狭めて、三寸にしてある表は幅狭になり、粋なつくり。
細(ホソ)、細判(ホソバン)とも呼ぶ。

縦の長さ七寸七分で、横幅を三分狭めた二寸八分の幅狭の表を「二八(ニハチ)」と呼ぶ。
逆に二八と言えば、縦の長さは七寸七分の幅狭表と分かる。
※七寸七分の表自体は大形(大型、オオガタ)、七七(シチシチ)と呼ぶ。

まれに、縦の長さ八寸、横幅三寸の幅狭を上記の様に横幅で八三(ハチサン)と呼ぶ事があるが、
ほとんどの場合、現代人の足の大きさに合わせた新規格である、「縦の長さの八寸三分」を指すので注意が必要だ。

八寸の幅狭は、基本的に「八寸の幅狭」「八寸幅狭」とか、「八寸三幅」と呼ぶ。

↓の写真で、真ん中の雪駄と左右の雪駄を比べて見ると、
真ん中のものが細いのが良くお分かり頂けるかと思います。
これが、八寸幅狭です。
さらに良く見ると、この真ん中の雪駄の先端が左右のものより浮いているのがお分かり頂けるかと思います。
この強い反りが江戸前の雪駄の証しです。地長表で幅狭で反りが強い東京の雪駄。
筆者がこの雪駄の凄さを理解できた時は、すでに遅く、売れてしまっていた逸品です。


◇星(ふ)

2012.12.28画像追加&加筆↓星。竹皮が本来持つ、黒紋(黒班、斑点)の事。

↑星があるのがお分かり頂けるだろうか。小さい黒い点。

2013.5.19写真追加&加筆
↓の写真で小星、大星の大きさの違いが分かる。


地星・・・星の大きさ1.5mm以下程度でまばらにある表。小星、大星を含む総称でもある。
小星・・・約2~2.5mmの星がまばらにある表。
大星・・・約3~4mmの星がまばらにある表。

星は「ふ」とも言う。

◇星の扱い(表の評価)
まず、表を編む前に、星が無い竹皮を選別する。
そして、選別しても少しはあるので、なるべく星が表に出ないように、三つ折りにする。

この星は大きかったり、多いと、それに比例して表の値段も安くなる。  

しかし、通好みは、この星のある方が「味があって良い」とする。

地長表でもこの星入りは存在したが滅多にない。

2013.12.4↓
ちなみに筆者の所有する40年以上前の高崎南部(地長表)は星が入っている。

◇地長表の名称由来、起源を探る

「地長表」と言う名称は、この道50年(2015年現在)の大問屋の大番頭に聞くと、

「どこの表の「製造所」が最初に命名したブランドネームかわからない。
由来(意味)も分からない。」

でも、

「俺がここに入った時からその名称はあった。」

と仰っていた。

問屋、小売店が命名したとも考えられる。

なぜなら、履物業界では、出所が一緒で全く同じものに対して、
主に問屋、そして小売店が他社と差別化を図るため、独自の名称を付けて販売する事が非常に多いからだ。
もちろん、製造所が命名することもある。

地長表は「地永表」とも書くみたいで、先述した番頭さんは「地永」と書いていた。
でも、筆者は、そう書くのはこの人しか知らない。

そして、大正2年から~昭和25年までの履物関係の新聞や文献を調べたが、
この間に地長表と言う名称では広告に出ていない。

参考文献:大正2年「東洋履物商工人名鑑」の広告では、

本南部表
地南部表(東京八王子製)
地原表(ジハラナンブ=東京製。※原南部=バラナンブもあるがこちらは岐阜特産)
地棕呂表(東京練馬特産)
眞長表(シンナガオモテか?※「眞」=訓読みでは「ち」なまって「ジ」とも。他に「ま」「まこと」「まさ」「まつ」「さな」)

高崎南部(後に地長表の類に入る。)
八南部表(八幡表=八幡南部=九州南部=の事で、後の地長表の事か?)

とある。

広告主のお店(問屋)の所在地が東京の日本橋とあるが
関東大震災前までは、東京の履物問屋街は日本橋、神田に集中していた。

話がそれたが、

「地」は、履物業界では東京(江戸)を指す。
古くは江戸時代の江戸の雪踏が「地雪踏」と呼ばれていたように、
昔から使われていた言葉だ。

その「地」雪踏の呼称の名残が、「地」長表の頭に来る「地」となったのは推して知るべしだが、
地長表の名の意味は、筆者の師匠である、閉店された履物屋、甲州屋のご主人が、

「地元でとれた長い草」だと仰っていた。
※草は、主に竹皮、棕櫚葉などを指し、「草物」と言うと、履物業界では竹皮、棕櫚などの雪駄や草履の事。
また、穂長表の様に、穂が長いからその名称が付いた表もある事から、長い草説は有り得る。

そして、その話を聞いた10年後の2015年に、丸屋五代目に聞くと、

地長表は「地元の長い草と聞いたことがある」と仰っていた。

しかし、先述したこの道50年の問屋の番頭さんはこの説を否定していた。
※ちなみに、問屋さんでは地長表のことを「茶」と呼んだりもする。
色が飴色=茶っぽいから。

時は流れて、昭和25年刊の参考文献:はきもの変遷史にも「本南部」「南部表」とあるだけで
地長表の記述はない。
(昭和25年の時点で、本南部と南部が明確に分けられていたのが分かる。)

地長表の正式名称なのかは不明だが、保存しておいた甲州屋のHPによると、

「本南部地長表」

とあり、「本南部」と冠が付く。

しかるに、本当に岩手の南部地方で編んでいた「本南部表」の製造所が、
既存の本南部表の上を行く竹皮の質、編みの細かさの表を作ったり、、
何か技術的な向上があったりして、製造元か、もしくは東京の問屋か小売店が仕入れた際、
既存の「本南部表」と区別するために、

この二つの名称を

「本南部+地長表」

とつなげて、
 
「本南部地長表」

と正式名称にしたのではないだろうか。
名称に無関係な地域が入ることは考えにくい。

そして、はきもの変遷史には、要約すると、
「明治中期頃から東京都下八王子、群馬県高崎、九州博多方面で南部表(今の本南部表)に匹敵する、
優秀な竹皮表を製造しており、それぞれの地名を冠し末尾に南部表と付け名称した」とある。

で、本南部地長表や地長表と呼ばれる表は、整理型に表をはめて熱とプレスで形を整えた整理表のものしか存在しないし、
それ以前の表は整理されていない表なので、誰が見ても、到底、美しい表とは言い難い。
この、整理型が発明されたのは大正初年頃、東京の中村千代吉氏によるものだから、
最低でもそれ以降に、本南部地長表、地長表が出現したと考えられる。
整理型は、最初に東京で使われた事は明白だ(中村千代吉氏発案=東京)。
ここで、地長表の「地=江戸=東京」説の強力な裏付けができそうだ。

追記2020.4.12
中村千代吉氏/参考文献:全国履物商工人名鑑. 大正5年5月
nakamura chiyokichi

良く読んだら、青森出身!

追記2020.4.12

上述してきた、
文献の記述と筆者の考察を根拠とし、地長表に至るまでの表の出現過程を年代順に記すと、

1.南部表(江戸時代末期、南部藩の武士により製造)

2.○○南部表(明治中期頃から南部地方以外の各地で製造)

3.本南部表(1の江戸時代からの本物の南部表が、2の出現で名称変化。南部地方で製造。)

4.整理型発明(大正初年頃。東京の中村千代吉氏が発明。)

5.本南部地長表(大正初年頃以降~、本当に南部地方で編まれ整理型でプレスされた表か?)

6.地長表(各地で製造された○○南部表がプレスされた表か?)

と言う流れと考える。

なぜ、本南部地長表と地長表に区別したかは、
南部表出現後、それに匹敵する表が各地で○○南部表と呼称し製造されており、
それにより、本来の南部表は本南部表と名称が変わった。
その、○○南部表と呼称し製造した各地の内の二地域が、
後に地長表の代表的な産地(群馬県高崎と福岡の八幡)になっている事実から、
本南部地長表と言う名称が存在する以上、
各地の地長表と本南部地長表を同一視する事は整合性に欠けるからだ。

しかし、どっちが最初の名称なのか?
本南部地長表が先か、地長表が先かはわからない。
南部表が本南部表に名称変化した理由と過程から考えると、

最初は地長表で、各地でその名称を真似されて、”本南部”地長表と冠を付けたのか?

はたまた、南部表→本南部表になった事を教訓に最初から本南部と冠したのか。
どちらにせよ、地長表の元祖は南部地方だと思う。
で、東京にその表を持ってきて整理型でプレスしたか、東京の中村千代吉氏が整理型を発明したから
地長表の「地」が頭に付いたと考えられる。

ちなみに、○○南部表と言うのは、昔、台東区今戸でも製造されていて東京名産だった。(はきもの変遷史による。)
まさか、本南部の「本」パクッて東京を示す「地」をいれて、勝手に本南部地長表なんて名乗ってないだろーな?

ん?

じゃ、「長」って何だよ!

・・・やはり、長い草の「長」か?

そして、後日掲載するが「長表」と呼ばれる表が存在している事も見逃せない。


この起源説解明調査は今日も続いていく。大いなる謎を残しつつ・・・。。

あと、どなたか履物新聞をお持ちの方がいればご一報ください。
何卒、宜しくお願い致します。

お礼致し〼
2013.12.4↑

◇雪駄(表)ランキング

の竹皮表の品質を大まかに順位付けすると、

チャンプ.本南部地長表(本当に南部地方で編まれた地長表。)
1.白ムシと地長表(白ムシの方が希少価値は高いが、地長の方が詰み、色艶、竹皮の質全てにおいて上。)
2.本南部表(ムシとも呼ぶ。)
3.南部表(本南部表の当初の名称。その後、優秀な表の総称)
4.地星(1.5mm以下程度の星がまばらにある表。小星、大星を含む総称とも言える)
5.小星(約2~2.5mmの星がまばらにある表。)
6.大星(約3~4mmの星がまばらにある表。)
7.改良南部表(星入りのものと混在。)
※上記まで竹皮は日本産。改良南部表は支那竹皮のものもある。
8..支那表(支那南部表とも大正南部表とも呼ぶ。大正時代に始まった。)
9.棕櫚表(棕櫚の葉でできている。)

上記の昔の品質の基準を、の基準に当てはめて順位付けすると、

1.支那表(竹皮は中国産。現在製造されている最高峰の表で小売店では南部表と呼称)
2.K表(新表とも。2007~2008頃に出現。販売元:練馬。中国産竹皮で中国で編む。流通僅少)
3.野崎表(最廉価表。製造工程を可能な限り省き目が粗い、へそも潰れている。主に山形県で編まれている)
以下、現在全滅(2017年時)。
消滅..本南部地長表
消滅.白ムシと地長表
消滅.本南部表
消滅.南部表
消滅.地星
消滅.小星
消滅.大星
消滅.改良南部表

となる。
筆者はデッドストック物の地長表と本南部表を取り扱ったことがあるが、
これは全くの別物で、地長の方が目がつまっているし、色艶も良い。

また、参考文献:はきもの変遷史の、2013.12.1↓
南部表(今の本南部)の記述では

江戸時代の南部表は漂白(さらし)も程々に、あくまでも竹皮本来の持ち味を発揮し、あまり白くせず、
極端に赤味に陥らず、薄肌色で茶色っぽい。

とある。

南部表(本南部)は国内産の真竹の竹皮が用いられる。

この江戸時代の南部表=今で言う本南部表は
またまた参考文献:はきもの変遷史によると、その最初は、

「奥州南部藩の家臣達が、江戸在勤中、下駄表の製造を内職としていたが、
次第に熟練して巧妙な仕上げをするようになった」説と、

「水戸在勤の佐竹候が、南部に国代として在勤したとき、領区は非常に広くあったが
山間僻地のこととて取り立てる産業もなく、収入が僅少で困っていた家臣たちに内職として
竹皮表の製造を奨励する一方、これを南部表と銘して各大名連中に、国土産として贈っていって
宣伝に努めたのが始めである。」

と二説あるが、

ともかく、南部藩の者によって作られた表(南部表)が優れていたことに間違いはない。

と締めくくってある。
2013.12.1↑

◇革の目利き。


革: コバ(裁断面)が滑らかなものほど良い(最終仕上げのチャコ(コバ蝋)の引き方にもよる)。

革底の裁断面をコバと言う。
コバと革底の外周の縁に色がついているが、その事を「チャコ」と言う。
チャコの色はほぼ全ての雪駄が黒。
古い雪駄には茶、ワインレッドのチャコも見られる。
今まで確認できたチャコの色は黒、茶、ワインレッドの3色。

しかし、今は色々な染料があるので、どんな色でもできる。

裁断にかなりの技術を要するが、革底は硬い方が良い。
厚みは4mm~5mmがバランス的にシャープで良い。
一度、厚さ8mm越えで作ったのだが、ぼてっとしてて不格好。
今の雪駄の革底は4mm以下の牛のベリー、ショルダーといった柔らかい部分が使われている。

クローム革(青底)と呼ばれる草履によく使われる革は、2015年から40年以上前は5mmあったが
次第に、4.5mm、4mm、3.5mmと薄くなっていった。
「コスト軽減と草履職人の高齢化(針を通すのに力がいる為)が主な原因」だと、ある材料屋でお会いした鼻緒製造所の社長さんから聞いた。

◇チャコの起源

2013.12.1↓
参考文献:履物考を見直していると
明治初年頃、明治25年頃、明治30年頃の雪駄や草履にチャコが塗ってあるものが確認できた。
なお、はきもの博物館でも文献でも、江戸時代の雪踏や草履でチャコは確認できず。

↓明治初年頃の雪駄59番
チャコが塗ってある明治初年頃の雪駄1
チャコが塗ってある明治初年頃の雪駄2

↓明治25年頃雪駄106番(草履と記述があるが尻鉄があり、重ねが1の3以下なので雪駄である)。
明治25年頃雪駄1
明治25年頃雪駄2

明治30年頃草履115番
明治30年頃雪駄1
明治30年頃雪駄2
白黒写真だが色は黒だろう。
チャコ仕上げは洋靴からきたものか。
2013.12.1↑

2017.7.1塾長のチャコ考察↓

チャコって何だ!?なんでチャコって言うの?

説明しよう。

弾直樹氏が明治3年に皮革製造伝習授業及軍靴製造伝習授業御用製造所を開設し、
アメリカ人技師チャールス・ヘニンガー(ヘンニクル)を招いて洋式皮革・軍靴の製造を開始した。
この洋靴の革を、チャールスから取って、茶利革(ちゃりかわ)と名付けた。
(弾直樹=弾左衛門は、江戸時代の雪踏製造の権利を持っていた。詳しい事は日本はきもの博物館編の下の方を参照されたし)。

で、茶利革はお歯黒みたいに黒く染めていた。

それが、雪踏のコバを黒く縁取り、美観等を良くするためにも応用させたと考える。

茶利革(チャリカワ)の

チャ

コバの




チャコ


や!


立証の補強↓
http://dictionary.jlia.or.jp/detail.php?id=1148
チャールス氏の指導を受けて製造した革。明治初期において、
日本の皮革製造技術を向上させるために海外から技術者を招へいし、指導を受けた。
技術者の名前から「ちゃり革」と呼んだのが始まり。薄いぬめ革を柔らかくもんだ革で、
鞄の素材として利用されていた。また、クロム鞣剤とのコンビネーション鞣しを行って軍靴<ぐんか>の甲革として使用していた。
明治時代、茶利革はお歯黒と同様に、鉄漿≪かね≫とよばれる鉄の酢酸溶液で黒色に染色されていたことがあった。
現在では牛皮やインド産ゴートクラストを植物タンニンで鞣し又は再鞣しした後、種々の化学染料で染色し、
手もみでしぼを立たせて製造されている。
立証の補強↑


('ω')ノこのチャールスが日本に来たのは明治3年。

道理で、江戸時代の雪踏にはチャコ仕上げが施されたものが一切なかったのか。
そりゃそうだ(;^ω^)
タイムスリップできないからね!!

2017.7.1塾長のチャコ考察↑

2020.3.28追加
洋服などの縫製時に目印に使う「チャコペン」つまりチャコールペンとかも関係ありそうで、そのチャコ説も濃厚。
ただ、江戸時代の雪駄はチャコ仕上げ無しで、チャールスが来てからの明治期の雪駄からチャコ仕上げがあるので
その関連性も否定できない。
2020.3.28追加

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雪駄塾 塾長

Author:雪駄塾 塾長
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phone:050-5435-1973

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