FC2ブログ

まず、ご多忙の中、筆者にお付き合いして頂いた、

日本はきもの博物館研究員の市田京子氏にお礼を申し上げたい。

この日本はきもの博物館は、2013.11.25を持って閉館された。

本当に惜しい事である。今まで日本のはきもの、そして世界のはきものの研究、
資料保存、展示に尽力して下さった皆様、本当にありがとうございました。

そしてお疲れ様でした。


押忍!!

行ってきました、日帰りで、鼻息荒く、東京から広島の日本はきもの博物館に!

だんだんと寒くなってきましたけどもね、鼻息荒く、連載企画!

江戸時代の雪駄から日本の古今東西の履物を網羅する、


日本はきもの博物館編!


鼻息荒く、始まりです!



まずは、江戸時代の京阪の雪駄の革底(裏革)の縫い方について。
京阪の雪駄の革底の縫い方1
京阪の雪駄の革底の縫い方2
↑写真をご覧いただきたい。
江戸時代の京阪(京都、大阪)の雪駄の革底の縫い方はこうなっている。

参考文献:守貞謾稿(もりさだまんこう)の記述によると、

今世(江戸時代の天保年間)雪駄 京阪用
裏皮(革底)を図のごとく片側三か所、左右合わせて六か所切りかけて背に縫い貫く。
すなわち表の周り三か所を切り、裏に縫い出すなり。

とある。

京阪製、幅狭く、尻鉄大型なり とある。
江戸時代の京阪の雪駄は表の幅が狭く、ベタガネ(尻鉄)が大きかった。
そして江戸の雪駄と比べると鼻緒は短かった。
江戸では京阪の雪駄を「下り雪駄」と呼ぶ。
※下り雪駄は、主に和州(奈良)の桜井辺りで製造されていた。

上方より下る雪駄は上品なり。と参考文献:我衣にある。
この下り雪駄は上方から江戸に来たものである。
※江戸時代のころの「上方」は主に「京阪=京都・大阪」を指す。

江戸時代の弘化以来から逆に江戸の雪駄は上方に広がった。

江戸の雪駄は、貞享、元禄より前までは「地雪駄」と呼ばれていた。

参考文献:「我衣」や「久夢日記」によると、
「この頃、地雪駄といえば(江戸製)雪駄のことであった。
雪駄は上方から下るものが上品、江戸製は下品であった。」
しかし貞享の末に江戸に雪駄の上手が出て、以降みなこれを履いた」

また、参考文献、「守貞漫稿」や「嬉遊笑覧」
江戸雪駄が上方製に変わってもてはやされるようになったことが記されている。

地雪駄とはその土地(筆者※江戸時代では江戸の事を指す)でできた革底の雪駄。
特に江戸では、貞享(1684-1688)頃に流行った。
参考文献:日本国語大辞典

「五分下り雪駄」と言うものがあるが、これは江戸で最終仕上げがされた雪駄であり
初め上方で雪駄がつくられ、江戸へ半製品を送ったので五分下り雪駄といった。
貞享年間(1684-88)ごろから裏に革を張った雪駄が出現した。参考文献:世界大百科事典

また、参考文献:はきもの変遷史によると
(江戸では)、幅が広くて(表)、尻鉄(ベタガネ)が小さくて、従来の鼻緒よりも長いものを挿げるのが流行で、
これを「五分下りの雪駄」と言った。とある。
※五分下りではあるが。江戸特有の形状の雪駄。

そして、江戸時代の京阪の雪駄の写真がこれだ。
江戸時代中期の雪駄6
六ヶ所、切りかけて縫ってあり、表の幅が狭く、尻鉄が大きいのがわかる。

中芯(表と革底の間に入れる芯)は竹皮である。
以下、江戸時代中期の京阪の雪駄の写真↓
江戸時代中期の雪駄1


江戸時代中期の雪駄2
↑鼻緒は白なめしの二石(二筋)仕様である。

江戸時代中期の雪駄3
江戸時代中期の雪駄4
江戸時代中期の雪駄5
↑表と革底の間には、重ね(草芯)は入っていなくベタバリ仕様である。
ベタバリについてはこちらを参照してほしい。

雪駄の台のつくり~革芯と直付け~京阪~江戸前
雪駄の台のつくり~革芯と直付け~京阪~江戸前その2

今でいうところのベタバリは江戸時代では「単雪駄(ひとえせった)」と呼んだ。

参考文献:はきもの変遷史によると、

江戸時代、文化・文政以後の雪駄の殆どは、真竹皮製に裏皮(革底)といった「単雪駄」である。

重ねが入ったものは「重雪駄(かさねせった)」と呼んだ。

江戸時代中期の雪駄7
江戸時代中期の雪駄8
江戸時代中期の雪駄9
江戸時代中期の雪駄10
江戸時代中期の雪駄11
↑ベタガネ(尻鉄)は、鍛冶屋が一枚一枚手で打ったものとみられ、表面にトンカチの打痕があり、
全体的に湾曲している。

このベタガネ、天保府命前には裏鉄を赤銅でつくり、金象嵌を入れたものもあると言い、
権家へ賄賂などに送るものでもあったようだ。参考文献:守貞謾稿

また、参考文献:はきもの変遷史の、
「浮世の有様」に
雪駄の表を籐組にし、廻りを赤銅にて縁を取り、裏面には真鍮にて牡丹、龍などの象嵌(象眼)を入れ、
舟行のとき雪駄を仰のけにして、象嵌の美麗をほこるやうにせるあり
とある。

この象嵌の入ったベタガネは江戸時代、文化・文政の奢侈(シャシ=贅沢なこと)が爛熟期のころだ。

ベタガネについては、こちらで詳しく解説している。
雪駄(雪踏)についての考察~その6:かかとの尻鉄~伝説のベタガネ編~
雪駄(雪踏)についての考察~その9:かかとの尻鉄~伝説のベタガネ編パートⅡ~
雪駄(雪踏)についての考察~その10:重ねとベタ張りとベタガネ
雪駄(雪踏)についての考察~その17:かかとの尻鉄~穴開きベタガネと三日月~

江戸時代中期の雪駄12
↑中芯は竹皮で、経木ではない。

江戸時代中期の雪駄13
江戸時代中期の雪駄14



次はお待ちかね、江戸時代の江戸の雪駄だ!
江戸時代の江戸の雪駄1
左上のがそれ。守貞謾稿によると、表が幅広く、尻鉄(ベタガネ)が小さいのが江戸前の雪駄「地雪駄」だ。
裏革(革底)の縫いが、江戸特有の「切り廻し」になっている。

そして、鼻緒が長いのも特徴である。

切り廻しの写真はこちらを参照されたし。
雪駄(雪踏)についての考察~その23:雪踏師~手縫いに使われる道具たち~

江戸時代の江戸の雪駄2



次も江戸時代末期の江戸の雪駄だ↓鼻緒はビロードだ。
江戸時代末期の雪駄1
江戸時代末期の雪駄2
江戸時代末期の雪駄3
江戸時代末期の雪駄5
江戸時代末期の雪駄6
↑鼻緒の表皮が破れていて、芯に入っているものが覗ける。
藁である。なぜ、藁かと言うと、装身と化粧 江馬務著作集 第四巻に「鼻緒は~(中略)、藁を芯とし、あるいは綿を入れる。
とあるからだ。そして、その記述を裏付けるのが、この現物の鼻緒の写真だ。
よく見ると、藁なのがお分かり頂けると思う。

※江戸時代の鼻緒の中には、藁のほか、綿や和紙も入っている場合がある。
和紙は芯縄、藁などを包み鼻緒の中に入れやすくするために使われた。
現代の鼻緒の作り方である、紙で芯縄と綿を包むのと同じ。

江戸時代末期の雪駄7
江戸時代末期の雪駄8
江戸時代末期の雪駄9
江戸時代末期の雪駄10
江戸時代末期の雪駄11
↑重ねがつま先まで一枚入っている。今の雪駄にはこのつま先まで一枚だけ入った雪駄は作られていない。
作ろうと思えば作れるが・・・。

2014.6.26追加
ちなみに江戸時代の雪踏師の絵が人倫訓蒙図彙 六巻に載っている。
これだ。右側↓

左は尻切れ師で、この時代に尻切れ師と雪踏師が明確に区別されているので
尻切れから雪駄が生まれたのではなく、雪駄は草履の拡張と考えるのが適当である。
と、参考文献:装身と化粧 江馬務著作集 第四巻に記述があるが、
これも、実は定かではなく諸説ある。

またまた人倫訓蒙図彙だが、江戸時代の原本には・・・

「雪踏師」(京都)西洞院二條の下に住す。其外(そのほか)所々にあり。とある。
草書体で読みづらいが。
2014.6.26追加

ちなみに・・・雪踏師とは、雪踏として履ける状態にまでする職人。
工程は、表は竹皮から作る人が別にいて、
すでに出来上がっている表に鼻緒を挿げこみ、表と底の間に中芯を入れ、
ベタガネを打ち、縫い付ける。
※今の雪駄は、鼻緒だけ交換出来るように、革底に裏蓋がある。
※江戸時代の雪踏は「挿げ込み」と言われる、鼻緒をあらかじめ挿げてから表と革底を縫い付ける。
この鼻緒の挿げ込みまで雪踏師が行ったかは正直、雪踏師の図だけでは完全に解明されていない。
分業制で「表」に鼻緒を挿げこむ人がいたかもしれない。

いや、姉御!ちょっと待っておくんなせい!

雪踏師は分からんが、雪踏直しはどうなんじゃい!?

雪踏直しは、当然鼻緒挿げも出来た。
だって、直すんだから、挿げが出来なきゃ商売にならない。
よって、雪踏師が鼻緒を挿げれないという事は考えられない。
結論、

雪踏師は鼻緒を表に予め挿げておくのも、仕事の一つ。

これは、塾長新説(2015.10.5)だ。
↑違ったぽい(・_・; 畑中敏之さんが既に述べている。2017/10/14加筆

ちなみに、大阪の博物館には雪踏師が、表の後穴に鼻緒が挿げられている状態で、
表を木の棒で、てこの原理を応用して慣らしている姿の人形の展示がある。

雪踏直しは市中で、壊れた雪踏だけでなく、草履も直し、下駄の歯入れもしていた。
大阪の雪踏直しは、新品の雪踏も売っていた。


2015.9.27追加

2020/03/13追記
わたくしは目が悪い。最初に載せた人倫訓蒙図彙の雪踏師の絵には既に花緒が挿げられている雪駄が置いてあるし、
雪駄を先割れの器具で両端を紐で縛って押さえ込み手縫いの準備をしている。
なので雪踏師は花緒を挿げて、手縫いしていた。
2020/03/13追記

江戸時代中期の縁取り表の草履。鼻緒は二石ビロードで縁取ってある。表は竹皮ではなく、藺草(イグサ)である。
江戸時代中期の縁取り表の草履1
江戸時代中期の縁取り表の草履2
江戸時代中期の縁取り表の草履3
江戸時代中期の縁取り表の草履4
江戸時代中期の縁取り表の草履5
江戸時代中期の縁取り表の草履6
江戸時代中期の縁取り表の草履7
江戸時代中期の縁取り表の草履8
江戸時代中期の縁取り表の草履9
江戸時代中期の縁取り表の草履10
江戸時代中期の縁取り表の草履11
江戸時代中期の縁取り表の草履12
江戸時代中期の縁取り表の草履13



江戸時代中期の重ね草履。鼻緒は二石(ニコク)。
江戸時代中期の重ね草履
江戸時代中期の重ね草履2
江戸時代中期の重ね草履3
江戸時代中期の重ね草履4
↑一枚、つま先まで重ね(草芯)が入っている。

江戸時代中期の重ね草履5
江戸時代中期の重ね草履6
江戸時代中期の重ね草履7
江戸時代中期の重ね草履10
江戸時代中期の重ね草履11


大正時代の雪駄。爪先とかかと側が白なめしの革で保護されている。
大正時代の雪駄1
参考文献:守貞謾稿によると、江戸時代、宝永中以前、(僧侶の雪駄は)裏革(革底)を付け、表に革をかけ、
周りにへりとする。とある。

鼻緒は白滑革であった。

この雪駄は鼻緒の色が黒なので僧侶が履いた雪駄ではないと思われるが
爪先とかかとのへりを革で覆ったものは江戸時代からあった。

そして、この雪駄に革を三枚重ねて表は漆黒か溜塗りにしたものが

「カピタン雪駄」と言われるものである。(カピタンは紅毛の職名でキャプテン=船長の意味もある)
※紅毛(こうもう)または紅毛人は、江戸時代に呼称された、オランダ人、
 イギリス人など北ヨーロッパ系民族の総称である。

武士、医師、所化僧が用い、工商はこれを用いなかった。

また、熊等の毛皮を表や鼻緒にするのもあったが、江戸時代の元文以降廃絶した。

この時代の僧の雪駄、江戸時代の天保では、
士民と異なることはなく、ただし、京都、大阪、江戸では必ず白滑革の鼻緒を専用としていた。
下駄、足駄には漆革鼻緒も用いていた。


大正時代の雪駄2
大正時代の雪駄3
大正時代の雪駄4
大正時代の雪駄5
大正時代の雪駄6
大正時代の雪駄7
大正時代の雪駄8
大正時代の雪駄9
↑重ねは入っていなく、ベタバリである。

大正時代の雪駄10
大正時代の雪駄11
↑尻鉄(ベタガネ)は大正時代のものも一枚一枚、鍛冶屋が打ったものとみられるような
トンカチの打痕が表面にあり、ベタガネ全体が湾曲している。
もしかしたら鋳造で、砂型自体がこういうトンカチのあとを再現しているものだったのかもしれないが、
筆者が見た、江戸時代から大正時代の現物のベタガネ(尻鉄)はすべて、
一つ一つ形が微妙に違うので、その説は考えにくいし、
そもそも砂型自体にトンカチの打痕をわざわざ小細工するのも馬鹿らしいだろう。
鍛造で鉄を赤くしトンカチで叩くのと、鋳造で鉄を「熔かし」砂型に流し入れて作るのとでは、
鋳造のほうが鉄を「熔かす」分だけ、火力を出す為の金銭、労力がかかるし、
鍛造のほうが鉄の硬度が増し耐摩耗性が上がるので
このことからも、やはり尻鉄(ベタガネ)は鍛造であると言える。

よく見ると、鍛造のベタガネ(尻鉄)はかかと側(後方)に行くにしたがって肉厚になっている。
前方部と後方部は同じ厚さではない。

ここにも、ベタガネ(尻鉄)が鍛造だとする研究論文がある。PDFで開きます。
http://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/1999/1/BA67898227_2011_062_063.pdf#page=1&zoom=auto,-98,841

大正時代の雪駄12
↑切りかけ縫いの跡がうかがえる。大正時代にも、江戸時代の京阪型雪駄に見られる切りかけ縫いの
名残がある。そして、さらに切り廻してある。

大正時代の雪駄13
大正時代の雪駄14
大正時代の雪駄15
↑今も昔もこの方法で装着されていたベタガネ。両端の爪を革底にさし、トンカチで打ち付け、折り曲げ、圧着する。

大正時代の細い鼻緒が流行したころの雪駄。
大正時代の雪駄鼻緒が細い1
大正時代の雪駄鼻緒が細い2
↑鼻緒の太さは景気による傾向があるらしい。
参考文献:はきもの変遷史によると、不況の時は、細い鼻緒が流行する。
生地を使う面積が少なくて済むからである。不況の時こそ、
太くて丈夫な鼻緒が好まれるはずなのだがとも書かれている。

大正時代の雪駄鼻緒が細い3
大正時代の雪駄鼻緒が細い4
大正時代の雪駄鼻緒が細い5
大正時代の雪駄鼻緒が細い6
大正時代の雪駄鼻緒が細い7
大正時代の雪駄鼻緒が細い8
大正時代の雪駄鼻緒が細い9
大正時代の雪駄鼻緒が細い10

「気づいた事:二点」
まず一点目、江戸時代の表は仕上がりが良くない。なぜなら整理仕上げが無いからです。

現在の表は、大正時代の初めごろ、東京(青森出身)の中村千代吉が整理型(整理表)を発明(発案)したので整理型で熱と圧力(プレス)でとても綺麗に平たく仕上げているから。参考文献:はきもの変遷史

追記2020.4.12
中村千代吉氏/出典:全国履物商工人名鑑/大正5年5月
nakamura chiyokichi

では江戸時代の表はどうなのだろうか。

左:整理仕上げの現代の地星南部表雪駄(本南部系)   右:整理仕上げ無し、江戸時代末期の雪踏
edojidai genndai omote
整理型仕上げが発明(発案)される前までの江戸時代の表は、人力でテコの原理で表を平たくしていた現在のたたきまでの表と言った所。江戸時代の雪駄表はこんもり盛り上がっていて、現在の整理型仕上げ表と比べると決して平たいとは言えない。


江戸時代の表・・・最上仕上げ・・・たたき
現代の表・・・・・途中の工程・・・たたき

現代の表・・・・・最上仕上げ・・・整理型仕上げ


江戸時代の「たたき」がこちら。
今様職人尽百人一首の江戸時代の雪踏師による「たたき」工程の図。「ちあいがよいできだ」とある。
今様職人尽百人一首 雪踏師
追記2020.4.13筆者は花緒(鼻緒)挿げもするので気付いたのだが、この雪踏師が棒で押している部分を良く見てほしい。花緒の後穴辺りを押している。

つまり雪駄内部で花緒の横緒を結ぶのだが、それが表までボコッと盛り上がってしまうので、履きやすい様に出来るだけ平たくしている。

江戸時代の雪駄は最初から花緒が挿げられている挿げ込みで、しかも今みたいに重ねが1の3とか革芯ではなく、薄い一枚重ね雪駄か、単雪駄(直付け=ベタバリ=表と裏革だけ)がほとんどだった。中芯も竹皮なので硬い裏革よりも、柔らかい表に鼻緒の膨らみがボコッと出て履き辛い。なので表を平滑にするのと同時に、内部で結ばれている花緒の横緒、つまり後穴付近を棒を使い、テコの原理で押し潰して平たくし、履きやすく整えている。もちろん美観もあっただろう。ちなみに雪踏師、草履やの図に対して、この指摘は筆者が初だ。2020.4.13追記

写真は現代の雪駄の後穴を裏から見て横緒が結ばれている状態。これだけ厚みがあるのだから盛り上がって履き辛い。
これが、江戸時代の雪踏は表が膨らむと思えば良い。だから叩いたり潰したりして平たく延べるのだ。


※今様職人尽百人一首は原本所在不明だが、近藤清春と言う近世中期(1720年頃)、版本の挿絵を中心に江戸で活躍した絵師による図なので恐らくこの本も1720年近辺の物だと思われる。

同じ「たたき」の工程が江戸時代の草履やさんにも見られる。
草履屋さんもやはり花緒の後穴付近を押し込んでいる。
※表単体の状態から、雪駄や草履に仕立てるので、雪駄表専用、草履表専用と言う概念は存在しない。
予め雪駄にする事が決まっていて表を作るなら便宜上、雪駄表と呼ぶだけです。

草履や 出典「人倫訓蒙図彙(ジンリンキンモウズイ)」/元禄3 [1690]
草履や
草履やは1690年に描かれていますが、そもそも草履の方が歴史が古い。雪踏はその後。

雪駄(雪踏)は、
雪踏(初期)・・・草履の裏に革を張った物が雪踏。
雪駄・・・・・・上記の雪踏に更にかかとに鉄(尻金)を打った物が雪駄(雪踏)。

ちなみに下記写真右側二つは業界用語で「クビり、クビる、クビったやつ」と言われる状態で、布草履とかはこれで完成。

左側二つは「編みっぱなし」と呼ばれる状態の表でまだ編み途中。
追記2020.4.12

◇江戸時代の最上の仕上げの表は?
資料や現物を照らし合わせて確認した限り、現代のたたきの状態の表より平滑な表が江戸時代の雪駄表に見られたので、恐らく、現代のローラーがけレベル位の表が江戸時代の最終(最上)仕上げの表と同じに見えた。なぜなら、日本はきもの博物館で江戸時代の雪踏の写真の写真を撮らせていただいたものを、眺めているとたまたま発見した。証拠写真を載せたいのだが、市田京子氏から筆者がブログに載せるのは大元の許可を取っていないから絶対にダメ!と言われたので載せられない。誠に申し訳ない。いずれ大元に行きます。



そして気付き二点目、
革底外周部やコバにチャコ(色)が引かれていないという所だ。
江戸時代のコバは革が切りっぱなしで、何も塗られていない所も注目すべき点だ。
ちなみに、現代ではチャコは引かれている。主流は黒色のチャコで、茶色もあるがほとんど見ることは無い。

今回、はきもの博物館で見た、大正時代の雪駄もチャコが引かれていないが、
たまたまそうだっただけで、

参考文献:履物考を見直していると
明治初年頃、明治25年頃、明治30年頃の雪駄や草履にチャコが確認できた。
なお、江戸時代の雪駄や草履でチャコが引いてあるのは、はきもの博物館での現物でも履物考でも確認できず。

↓明治初年頃の雪駄59番
チャコが塗ってある明治初年頃の雪駄1
チャコが塗ってある明治初年頃の雪駄2

↓明治25年頃雪駄106番(草履と記述があるが尻鉄があり、重ねが1の3以下なので雪駄である)。
明治25年頃雪駄1
明治25年頃雪駄2

明治30年頃草履115番
明治30年頃雪駄1
明治30年頃雪駄2
写真が白黒だが、チャコの色は黒だろう。
チャコ仕上げは洋靴からきたものか。

また、江戸時代の皮のなめしは未熟だったのか、半透明な「皮」であるところも面白い
(※この半透明な革は詳しい人に聞いたら豚革だった2018.6.1加筆)


雪踏の革底は馬革が主流であった。

いや、江戸時代にも勿論、牛革底の雪踏があるが、それは高級品になる。

なぜ、馬革が主流かと言うと、浅草新町の雪駄生産の保護の為、
浅草新町以外の雪駄での牛革の使用を禁止し、他の町は馬革の使用のみ認めた為。

江戸時代の牛革と馬革の値段、耐摩耗性など比較は、まだ調べていないが、
牛より、馬のほうが頭数が多いので馬革のほうが安く手に入れられたのは容易に想像がつく。
浅草新町の人たちより、他の町の人たちのほうが人数が多い。
雪踏生産に携わる人たちの絶対数が他の町の人が多いから。
他の町の人たちは馬革底の雪駄を作るのでその数が多いので主流となる。

2015.9.27追加
詳しく解説。↓

雪踏や草履が莫大な利益を生んだ江戸時代には、もともとは浅草新町の雪踏屋が
雪踏生産を独占していたと考えられ、他の町の人々が雪踏、草履の「表」を作り浅草新町の問屋に売り渡していた。

そして、他の町の雪踏「自体」の生産が盛んになってきた1769年に役所は浅草新町の雪踏屋を保護するために
他の町の人々が江戸市中へ雪踏を卸し売りすることを禁じた。

しかし、この禁令はさほど効果がなく、在方の雪踏生産は一層盛んになり、それまで作っていなかった
地域にも雪踏作りが広がった。

そこで再度、役所は1797年、他の町に対し、竹皮を撚った三つ躁、四つ躁などの鼻緒を用い、
底に「馬革」を付けた雪踏の生産、販売に限って認めた。

言い換えれば、革鼻緒や色鼻緒禁止、革底に牛革禁止という事。

すなわち、役所は他の町の雪踏生産、江戸市中販売を押し止めることができなくなったので
「高級品」に限って独占を維持しようとしたのである。
(参考文献:近世被差別民史の研究 峯岸賢太郎著)
2015.9.27追加

2013.111.26↓
雪踏の革底の切り廻しの技法は、17世紀ヨーロッパの靴の革底を見ると同じであるのだが、
同時発生的に切り廻しが発明されたのか、雪踏の切り廻しを見てヨーロッパの靴がそうなったのか、
はたまたヨーロッパの靴を見て、

江戸に上手なる雪踏師が現れて、
江戸時代の江戸の貞享の末頃(1685年)に案出された(参考文献:我衣)


「切り廻し」


になったのか、今となっては知る由もない。
2013.11.26↑

2013.11.27↓
そして、鉄鋲(スパイク)と呼ばれる釘の頭が盛り上がった様な尻鉄は、京阪の草履や雪駄に見られるもので
江戸にはこのタイプが打ってある雪踏は無かった。

参考文献:守貞謾稿には

あらあら、雪踏の製(作り)にて尻鉄を鋲に代えるのみ。この草履は江戸になし。

とある。

その鉄鋲型(スパイク)の打ってある証拠写真がこれだ↓参考文献:履物考
江戸時代末期の女草履で尻鉄は鉄鋲型2
江戸時代末期の女草履で尻鉄は鉄鋲型

そして参考文献:守貞謾稿での記述部。
守貞謾稿の記述2
守貞謾稿の記述

※履物考の写真26と、守貞謾稿の図の草履をよく見てほしい。
 裏革の真中がむき出しになって、上下に分かれて革が張ってあるのがお分かり頂けると思う。
 そこに、尻に鉄鋲が二つ。

 履物考の写真と守貞謾稿の図が完全に合致した。

 このタイプの草履ではない、「雪踏」も京阪に見られた。

 そして、裏に革をはり、尻に鉄を打ったものが、江戸時代から雪駄の定義になっているのだが、
 履物考を見る限り、「完全に雪踏の形」をしているのに、
 写真付きで「草履」と記述があったりして、何が違うのかは履物考の写真だけでは判別が不能なものもある。
 おそらく、履物考が間違っていると思われる。
2013.11.27↑


魁!!雪駄塾~目次へ~



スポンサーサイト





この記事へコメント:する















雪駄塾 塾長

Author:雪駄塾 塾長
mail:settajyuku2@yahoo.co.jp
phone:050-5435-1973

◇雪駄 べたがね 補修部品
◇花緒一覧 特注製作等
◇過去に製作した雪駄
◇雪踏の語源~雪踏と雪駄~

© 2005-2020 魁!!雪駄塾

QR